正義と悪について

amphibianです
エンターテインメントで濫用されがちな美徳があって
信 義 愛 はとくに怪しいぞと思うわけです

愛 については歌とかでも濫用されてるぞというのは長年周知となっているかとおもいます
動物が愛を求めるのは自然であり また いくつかの戦争へのカウンター思想として人類愛が輝いたのは確かな経緯でありましょうが 少し頭をひねれば愛が全てを救うという主張は謎であります (全部愛で救われたことにしてしまえ というところまで踏み込めば まあね…… となりますが)
このへんは少しばかりDMLCで言及していましたね 愛がテーマの作品というにはちょっと乱雑すぎて当時の力量や視界の狭さがうかがえます(作品が面白いかどうかとは別の話として)
愛のテーマにきちんと取り組むことは今後の課題になるとおもいます

信 信じるということ これについてはより複層的かつ文化依存的な問題があり 海外だと神への絶対信心から派生しての人間の善性への信託とかあると思うのですが 日本だと無条件に仲間や血族の言動を信じるべしみたいになって「絆」大安売りとかに繋がっている気がします
正直いって誰だって嘘や間違いを口にしてしまうことはあって それを盲目的に受け入れた結果ハッピーエンドというのはご都合主義の領域ではないかと思うのですね
どちらかといえば 嘘は嘘として暴きつつ嘘でも関係性は壊れないことを示すというのが「絆」の価値を高める気がしています そんなことを大介とつばさが言ってたような気もしますが今後の作品でもうちょい深めたい概念です

義 正義については 対立概念である「悪」のはなしでレイジングループでわりと深く提示できたのではないかと思います
というわけで今回はコレで書いてみます

善悪観については ふさゆきの考え方はamphibianの考え方をわりとそのまま付託しています そのうえで amphibianは考えるだけでなんにもしてませんが ふさゆきはそれを(すさまじく好き勝手に)実現している というような感じでとらえていただければ幸いです

黄金律のはなしはDMLCでも出ました
やられていやなことはするな とか やってほしいことをしろ です
「何をやってほしいかは個人により異なる」のは確かなので 「何をやってほしいか・何がやられたらいやかをよく考える」もセットになりましょう
結局人間にできうる善行ってこれが基本にして限界なのかなと思っており ここから「義理」の概念が生まれ かつてやってくれてありがたかったことを返すこともまた普遍的な善行になるかなと思います

それ以外に 普遍的な正義や善はありえまいと思うのです
(すなわち普遍的な悪もまたありえないでしょう)

かつて同性愛は悪とされ いまは愛礼賛文化もあってか善とされているようです
昔の考え方が絶対悪とするのは簡単ですが もしかするとそこには当時解明されていなかった病気の防止だとか バースコントロール手段がない時代に妊娠の可能性のない性行為がフィーバーして秩序が乱れるのを防ぐとかいった意図があったかもしれません あるいは今後なんらかのそういうのっぴきならぬ事情がうまれ この概念がふたたびひっくり返ることもありましょう
いっぽうで近親婚や小児性愛などは愛礼賛文化のなかでもおおむね悪な扱いですが これが善とされた時代や地域はいくらでもあり とうぜん今後どうなるかわかりません
もちろん もちろん 基本的に全面的に善とされているヘテロな恋愛だって どうなるやらわかりません
殺人の是非などヘビーな話題だってそうです 黄金律の及ぶ範囲もありますが 安楽死や死刑については意見が分かれていますよね
いわんや 世の中にあふれる数々の道徳や規範やマナーのたぐいが 普遍性をもつことなど 考えられないと思うのです

結局のところ ほとんどの善悪観というのは 環境適応のためのツールにすぎないのだ と思っています
だから環境によって普遍的に変化してゆくわけです
進歩とか退行ではなく変化 ですね

房石陽明という人間についていえば この「善悪観の普遍的変化に適応すること」 さらにいえば「有利なかたちで適応すること」を信条にしている といえます
彼はほとんどの善悪には普遍性がないことを知っており そのうえでその場の「ルール(小説版では『道理』にルビ)」を読み解いて順応することと その中でセルフルールを設けて自律し(ルールは自分で決めたい) 結果的に他人から自分が迷惑を被らないポジションに立つことを目指します
その根底にあるのは ルールや他人に縛られず 自立して生きていきたいという心があり さもなければ自らの好奇心を追求する生き方はできない という考えがあります
目指しているのは「自由人」なのです
(もうひとつ「筋立(ストーリー)」に関する独自の考え方があり それを加えるといっきに胡散臭くなるのですが 今回は説明を避けます)

いっぽうで彼は黄金律レベルの基本的な善悪観は持ちあわせています だから基本的に他人を傷つけたり縛ったりすることは好きではありません
しかし 場のルールがそれを絶対的に求めるならば それに順応することはできます
「善悪観を切り替えて順応すること」を完全に自分の意志で行うことができてしまい それによるストレスもほぼ受けないことが 一般人からみたときに大きな異常性にうつることになります

本当は 「サイコパス」と断じるには 彼には善性が残りすぎているでしょう
他人の痛みとかどうとも思わないわけではないです
ただ「こんな村だし仕方ないな殺そう」「仕方ないので他人の痛みとか気にしないようにしよう そもそも僕も死ぬたびクソ痛いしいいだろ」とアッサリ思考できてしまう ルールを本当に自分で決めてしまえる という感じの造形です 聖人にでも狂人にでも自分を作り変えられる といいますか
それは異常性でもあり かつ英雄性でもあろう ということです
そんな彼でも「かみさま」を抱き込むところまでは行ってしまいましたので セルフコントロールは完璧ではありません 善悪観というレンズは人間の脳の深いところに埋まっていてなかなか完全には研磨をコントロールできないというものです

他の主人公たちにも目を向けてみます
大介(鈍色のバタフライ)はわかりやすく 一般人とかなり近い善悪観を採用していると思います 殺人は悪 友情は善 みたいな ただし最後の段階でその矛盾を克服するために「裏切られても殺し合ってもお前とは友達だ」という形で葛藤にけりをつけており 個人的には結構いい落としどころだったのではないかと思います(オリジナリティがあるかどうかはおいといて)
一方で和馬(トガビトノセンリツ)は とにかくこの世のすべては悪 かつ自分も悪 悪同士みんな仲良く死のうぜ! みたいなペシミスティックなやつで これはこれでデスゲームの主役としては味わいがあったかなと
景(DMLC)は「ごちゃごちゃ考えてまとまらないタイプのバカ」として書いており 本当は相当に含蓄深い思考を行っているのですが それをバカの思考と切って捨てて鈴さんに絶対帰依しており 善悪観もほとんどが科学信仰に基づく受け売りです すなわち「鈴さんの言うことが善」ですが その呪縛から逃れた場合は未知の世界が広がっていることになります

これらのキャラの善悪観はまちまちですが おそらく「善悪観は普遍的でない」という点で作者の思想は通底(といっていいのか?)しているのかなと思います

長くなってきたのでまとめます
エンタメ制作において信 義 愛といった哲学的概念のステレオタイプにおもねることはあんまり良いことだと思っていません
たとえば 善悪観の多様性や非普遍性に目を向けることは大事だと思っています
いろいろな善悪観を知り 歩み寄り共感してこそ はっと目を引くキャラや物語をかけるのではないか ということです

自分がうまくやれてる という話ではなく ようやくそういう気がしてきた というところで 今後うまくやれるかは不明です
特にこわいのは陽明において考え方を付託しすぎて今後まったく別の方向性でこれくらい濃いキャラを描けるかってところです
心配ですががんばりましょう
適応をつづけるため 作者もまた勉強と思考と変容をつづけていく必要があります
考えることをやめずに どこかに進んでいきましょう

今回はこのへんで

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  1. 匿名 2020.01.27 4:02am

    とても為になるお話でした

    盲目的に信じることをせず、自分の頭で考えながら世界をはかることが重要かと思いきや
    それすら主観で、普遍的ではないですね

  2. 匿名 2020.01.26 8:24pm

    オタクに相応しい価値相対主義的な考え方で、ある意味安心しました。これからも賢しげに中立を装いながら正義を冷笑しててください。

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