amphibianにとってデスゲームとは何だったか

↑について しっくりくる思考に至ったので書きます
amphibianです

いきなり脱線しますが プチデポットさんのSF人狼ループADV「グノーシア」のNintendo Switch版が2020/4/30発売とのことです
本当におめでとうございます
かつてADVポータルでも紹介記事を(勝手に)書いたりしました

今回の本筋ですが 人狼とは というよりは デスゲームとは 自分にとって何だったか ということで デスゲームというわけではない(とamphibianは思っている)グノーシアの人狼はそもそも違うのですが 論の一端をかすめるので後でちょっとだけ触れます

前置きが長い場合は結論を急ぎます
amphibianにとってデスゲームとは 「作劇上必要となる謎と困難と死とルールのパッケージ」です

前提

amphibianは作劇のドクトリンとして以下の各項を採用しています

  1. 知的面白さは「出題(謎)」と「答(解明)」のプロセスによって生み出す
  2. 劇的面白さは「追い詰め(困難)」と「異常行動(克服)」によって生み出す
  3. 「真剣さ」は命(死)またはそれに類するものとその代償により描く
  4. 世界の中核に支配的ルールと価値観を設定しそれを物語全体に作用させる(物語エンジン)
  5. 世界観の解像度を上げるために十分な量の設定を用意する
  6. キャラクターは独特かつ複数の中核要素により体現し作中で全て提示する
  7. 常に書き手側の人間観とユーモアと哲学をアップデートし「愛される」テーマや人物造形をめざす
  8. 新奇性 共感力 説得力を重点項目とし執筆をすすめる

各項とかいいつつ勢いで書いたので抜けや無駄があるかもしれません(謝
今回かかわるのは 1 2 3 4です

amphibianが物語を読むとき 求めているのは「謎」と「その解明」です
もっと言うなら「世界の謎の解明」です
誰がなぜどうやって殺した とか その殺しざまの激しさ美しさ とかには実はそれほど興味がなく その殺人をきっかけに物語世界の根源に迫っていくような流れに興奮します
謎が謎であるのは解明が困難だからのはずです だから解明には困難な道のりを要すはずだし 意外な飛躍も求められるはずです
人死には必ずしも必要じゃありませんが 命がけの真剣さ 命よりはるかに勝る価値は欲しい そもそも世界の中核の秘密に人間の命が左右されないわけがない
そして謎が明かされたとき 秘められた世界の法則と対峙する それはキャラや物語全てを支配するばかりか 作家が見つめた世界の本質であるはず

これらをまとめて提供できるプラットフォームとしてデスゲームを「利用している」ということです

なんでわざわざこんなことを言うか

曲りなりにデスゲーム書きをやってきて 言いたいことができたからです

たまに amphibianのデスゲームはアンフェアだと言われることがあります
それはamphibianのデスゲームには以下の特徴があるからです

  • 全てのルールが開示されていない
  • 暴力を許容している

加えて
「黒幕を成敗できない(ことがある)」とか
「生かす人と死なす人を選べない」とかも
含まれることがあります これは「アンフェア」というか不満ですね

これらの特徴はさっきの定義によって説明されます

amphibianが提示したいのは「謎」なので ルールは当然隠蔽します
amphibianが提示したいのは「困難」なので 理不尽な展開をいっぱい出します

いわばamphibianにとって デスゲームとは「試練」です
いっぽうで 一般的なデスゲームにはほかの軸が2つあります
「残酷ショー」と「スポーツ」です

言いたいこととは「おれがやりたいのは残酷ショーやスポーツじゃない」です

残酷ショーとしてのデスゲーム

作劇エンジンとしてデスゲームを採用するからには人間が必ず死亡します
その死亡のさまを殊更に残虐にセンセーショナルにかけば それ自体が耳目をあつめるショーとなります
こっちに片足突っ込んでいるのは自覚しています
「機動戦士Vガンダム」と「ブラックロッド」に強制開眼させられたものとして「世界の本質」に「残虐」や「グロ」がニューロン接続しているので いわば不可避の呪いです
しかしながら限界がある
まずプラットフォームの限界 ゲーム媒体ではレーティングやストア基準があり過剰に残虐なエンターテインメントは提示できない
次にグラフィックリソースの限界 amphibianは絵が描けない 頭のなかのグロさを映像化するための手段が足りない
さらには手法としての限界
そもそも「グロ」を追求することは一定は「分かりやすい大衆エンタメ」となり それ以上は急に「超マニアックなカルト作品」になる
大衆はある程度の残虐性を好むけど 道徳への挑戦への耐久度は個々人かなりバラバラであり そこを踏み込むととたんに拒絶の対象となりうる
世界の謎へと導く冒険の道すがらに死体を山と積み上げて人除けをするのは実際のところ本意ではないのです
だからきっと 今後もグロいものは書きますが グロさを追求してゆく職人という道は歩まないものと思います

スポーツとしてのデスゲーム

これこそが多分 少なからぬデスゲームファンの好みや認識と合わないところでしょう

デスゲームが定番ジャンルとなりレッドオーシャン化する過程で 当然出てくるのが「ルール整備」と「競争性」による作劇ポテンシャルの創出です
すぐれたルールのスポーツは極めて再生産性の高い作劇エンジンとなります
野球やサッカーやバスケや将棋は何度も作品の題材となっています
人情や根性面はもちろん 競技そのものの描写じたいがエンタメとなるのです
極論 ゲーム自体のオリジナリティが尽きたとしても 競技描写によって作品が生産できるので 産業的に有利 (というかそういう特性があるから生き残った)と考えます

うんうん分かる といいつつ
amphibianはスポーツとしてのデスゲームを書くことには特に後ろ向きです ていうか書けねえ

amphibianのデスゲーム

そもそもamphibianはスポーツが苦手です
運動神経がわるく ゲームセンスにも乏しく コミュ力も低い
青春時代すべてをスポーツマンにマウントされて過ごしたと言ってもいいい
そんなamphibianが「暴力封印型デスゲーム」を見て思うのは これは立場を逆転させた甘やかしではないかということです
暴力が封印されているのでパワーキャラはおおむね活躍できないですよね
頭悪く反抗して即座に殺される役とかになりがち
もちろん文武に長けたスポーツマンとかが活躍するケースもありましょうが
基本的には頭脳とかゲームセンスとか殺意とかに長けた側が活躍できるような舞台設定になっている
そこになんとなく スポーツマンを見返したいオタクへの忖度 みたいなものを感じて コレジャナイという感がある
amphibianが求めるのは困難であり 暴力を封印された奴がボコられてスカッとする体験ではない
むしろ暴力キャラも核キャラも各々の才覚を十全に発揮して 困難な試練として立ちはだかってほしいのです

スポーツならルールは全て開陳されるのが当然のフェアネスです
一方はルールを知っており一方は知らず 反則に陥れられて負けまくるなんて競技にもなっていない
しかしamphibian的にはそれでいいんです
ド不利な状況でボコボコになりながら ルールを解明したうえで相手を凌駕して打ち勝つというのがamphibianのカタルシスだから
いってしまえば勝負はフェアでなくていい
最初チートされるのも 最後にこっちがチートで勝つのもアリという立場です

振り返ってみます

「鈍色のバタフライ」はおそらく担当作品のなかでいちばんスポーツ的な内容です ルールは全て開示されており それを読み解いて利用しようとする側と そうはさせじという悪意の側で争いが発生します
この作品が好きな人から たまに「ルールは同じで別の組み合わせ・メンバーで」というご希望 (スポーツとして当然の要求 トガビトではまず来ないリクエスト) をいただきますが amphibianは常に否定的です
既に終わった物語だからということもありますが 正直にいってバタフライゲームのルールはスポーツとして底が浅いのです
既に必勝法は存在しており それを崩すためには信頼や道徳や恐怖心への挑戦しか残されていない まあそこも含めてルールや様式と言い切って再生産することはできなくもないと思いますが 個人的にはスポーツ的な楽しさの再生産は難しいと思っています

「トガビトノセンリツ」は 明確に「amphibianがスポーツ系デスゲームを書く」ことの限界を見切って 悲劇と叙情に寄せた作品です
摩擦が起きることは想定していましたが 惜しむらくはスポーツ要素を削ったことにより失われたエンタメ性が 他の要素により十分に補償されなかったこと
これにより鬱やサイコ要素が評価の中心となって 好みが大変に分かれる結果となったように思っています
これはゲームなので ゲーム的楽しみ すなわち攻略する楽しみ 獲得する楽しみを含めれば もっと幅広く受け入れられるものになったと思います
もちろん今のが悪いわけではなくて 小説的または映画的な美しさはあると思うし 根本的にスポーツじゃないのでどう頑張ってもスポーツファンは救えなかったと思います

「黒のコマンドメント」は お手伝いの身分なので本筋について論じるのは控えます
ただひとつ明かしておくと あの作品でamphibianの作業比率がもっとも大きくなったのは エクストラコンテンツ5本(5番目のは前座部分)と 「もう一人の生存者」です
「もう一人の生存者」において amphibianは「かいしょう」と「デトリタス」という圧倒的絶望と困難に挑む主人公チームの目線を体験しました それは確実に「今」に繋がっていると思います

「レイジングループ」は それまでに学んだことを活かしつつ バランスをとりつつ ひとまずの結論として作り上げたものです
たぶん今回のエッセイの総論的な内容になっていると思うのであえて深堀りはしません
世界をより高精細に描くという点や ロジックの美しさの面で課題を残しつつ amphibianのデスゲームとしてはまあまあやりきった気がしています(課題については小説版で改善をこころみたので読んでほしい)
それはともかく
元は人狼ゲームなので スポーツ的にやろうと思えばやれるわけで 「別ルート」のリクエストが来るのも当然かとは思います
完全読本の小説で道筋もできましたが 個人的にはとっくにやり切った気でいるので もっとやりたいことがある限り自分で立ち戻ることはないのかなと思います

根源

たぶんこんなことを思うのは さっきも言ったセンスなき者としての性分と 海外製のわけのわからないゲームに食らいついて面白さを掴みとっていった体験に根差してのことです

スポーツにおいて競技者に求められるのは 如何にルールに適応した成長と作戦をとれるか
そういった適性のないamphibianは 未踏の荒れ地で苦しみもがきながら活路を模索する生存戦略をとりました

果たしてこういうスタイルがメジャーになりうるのかは分かりません
山にひそむ変なおっさんとして奇異の目で見られるだけかもしれません
それでもamphibianはこっちの道を選びます
それが楽しいからです

もし楽しめそうなら 追ってきてください
落とし穴をいっぱい作ってお待ちしています

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そんなamphibianが書いたデスゲームじゃない唯一のKEMCOノベルADV「デスマッチラブコメ!」が6/25に出ます
この記事の内容とはかなり通底した作品になってるとは思います
シナリオ内容は基本踏襲していますが 現在の目線で「これはやっぱナイな」と思ったひどすぎるギャグや不適切表現を改変したりしています
「ただの調子っぱずれのギャグ」でなく 「amphibianのやつ」とより強く思っていただけるような一品になったと思います
どうかお手元に置いていただければ幸いです

また原作を担当したマンガ「こっくりマジョ裁判」が全4話で完結しております
この記事の内容をめちゃくちゃ濃縮したうえで 中山敦支先生の超パワーでスーパーホットに仕上がった 激辛担々麺みたいな一品だと思います
まだ全話オンラインで読めますし 7月には単行本も出ます ご満足いただける一冊になるようがんばります
楽しんでいただければ幸いです


こんな長い記事 および amphibianの独りよがりなこだわりに ここまで付き合ってくださりありがとうございました
それでは

※グノーシアは「カラッとした感じ」はある意味スポーツ的で しかしスポーツでは決して起きえない事態がやまほど起きて それでも穏やかにそれを受け入れられる とても不思議な 完結した箱庭的世界だと思います やはりそれは 作り手の頭の良さ 素敵さが織りなす芸術のたまものであって amphibianの泥臭いやり方では達し得ない極致なんですよね 美しくも遠い……

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  1. しごと 2020.03.31 1:05pm

    凄く勉強になる上、色々と考えるきっかけになりました。
    さすがです……!

  2. 匿名 2020.03.31 8:43am

    個人的にデスゲームもの前ニ作はそれぞれ「デスゲームのルールがそのようになった理由」まで踏み込んでしっかり描かれてると思っていて、だからこそどちらも読んでいて強い違和感は覚えなかったな、という風に感じてます。
    これが例えばそれぞれ黒幕となるヴィランが逆だったら不自然になってたんじゃないかなと感じてたりします。(当たり前のことではあるけど。つまりそのヴィランらしさがデスゲームにちゃんと反映されていると感じました

    それはそれとして

    > 「ただの調子っぱずれのギャグ」でなく 「amphibianのやつ」とより強く思っていただけるような一品になったと思います

    とっても楽しみです

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